2026/05/01 ( Thu ) UP
長崎・稲佐山が育てた絆 ― FUNKISTと「V-ROAD」がつないだ物語
ロックバンドFUNKISTのボーカル、染谷西郷の言葉から見えてきたのは、長崎という街と彼らの音楽が育んできた特別な関係だった。V・ファーレン長崎の応援歌として愛される「V-ROAD」は、スタジアムで歌われ、人と人を結び続けてきた。そして2026年5月31日、FUNKISTは彼らの歩みの起点とも言える長崎稲佐山で、入場無料の野外ワンマンライブという新たな挑戦に踏み出す。長崎とともに歩んだバンドの軌跡をたどる。
「V-ROAD」とV・ファーレン長崎
FUNKIST 染谷西郷にとって、長崎は「応援」という行為の意味を根本から問い直される場所だった。Jリーグのサッカーチーム、V・ファーレン長崎は、自らを「平和の街のサッカークラブ」と定義している。スタジアム正面に掲げられているのはエンブレムでもチーム名でもなく、「PEACE」という言葉だ。スタジアムの名称もピーススタジアム。この場所はかつて造船工場であり、戦時中は軍需に関わる施設だった。その歴史と、原爆投下という現実を背負った上で、「平和」を名乗る。その覚悟が、このクラブの根底にある。
2025年8月9日、原爆が投下されたその日、試合前にサポーターによる決起集会に招かれた染谷は、団長を務める男性の言葉を聞いた。彼は被爆三世で、この場所がかつて武器を生み出していたこと、そしてすべてを失ったあとに「ピース」と名づけられたスタジアムが建っている意味を語った。「今日、サッカーを応援できる喜びを、誰よりも胸に刻もう」。その言葉の後、サポーターたちは「V-ROAD」を歌った。
V・ファーレン長崎のサポーターは、ブーイングが極端に少ないことで知られている。負けた試合のあとでも、選手を拍手で迎え、応援チャントを歌い続ける。染谷は、ブーイングよりも拍手のほうが、選手にとっては重く、厳しいものになり得ると感じている。「この人たちに勝ちを届けたかった」という思いは、怒号よりも深く胸に残る。その積み重ねが、チームを強くする形であってもいい。負けた選手を否定しないことで強くなるチームが、世界に出ていく可能性だってあるはずだ。
FUNKISTの「V-ROAD」は、2013年、V・ファーレン長崎がJ2に昇格した際、スタジアムで歌う機会をもらったFUNKISTが「勝手に作ったV・ファーレン長崎応援歌」として披露したのが始まりだった。2017年、クラブが経営赤字で存続の危機に立たされたとき、サポーターの一人がその映像をYouTubeで見つけ、「俺たちのための歌があった」と再び歌い始めた。観客動員は激減し、「応援しても意味がない」という空気が広がる中で、残ったサポーターたちは、もう一度チームを一つにする象徴として「V-ROAD」を選んだ。
その後チームは13試合負けなしでJ1昇格を果たす。しかし翌年11月10日、J1の壁に阻まれ、J2への降格がほぼ決まった試合後、スタジアムは沈黙に包まれていた。本来なら、残留への快進撃を誓うはずだったその場所で、FUNKISTはステージに立った。染谷が語ったのは、「J2に行っても、サッカーを応援できる」という当たり前の事実だった。「俺たちからサッカーが奪われたわけじゃない。だから、ここからまた始めよう」。そう呼びかけ、「V-ROAD」を歌った。その歌に、サポーター全員が応えた。
後にV・ファーレン長崎の社長に就任する高田春奈氏は、その時、スタジアムにいたという。就任会見では、FUNKISTもサポーターも全力で「V-ROAD」を歌う光景を見て、「愛にあふれたクラブだと思いました。こういうクラブであれば、本当に夢を発信していける、メッセージを送っていけるクラブだと思いました」と語っている。
「V-ROAD」はやがてJリーグを越え、甲子園、高校サッカーの応援歌へと広がっていった。誰でも歌えるメロディと、排除しない言葉は、応援の場で自然と共有されていった。長崎では、野球もサッカーも、この曲が鳴る風景は、もはや特別なものではない。
長崎は、勝っているときだけでなく、負けたときも人を肯定する街だ。長崎出身ではないFUNKISTが作った曲であっても、「長崎を愛してくれた歌」として受け入れる。その姿勢そのものが、この街の文化なのだろう。V・ファーレン長崎の応援歌を担っていることは、FUNKISTにとって単なる役割ではない。平和と肯定を、音楽で引き受けるということだ。「誇らしいです」と染谷は言う。その言葉は、長崎と共に歩んできた時間の重さを、そのまま表している。
FUNKISTと長崎・稲佐山の歴史
FUNKISTがデビュー直後に直面していたのは、音源を出してもなかなか次の扉が開かないという現実だった。ライブハウスでは手応えがあっても、野外フェスには声がかからない。そこで彼らは発想を変える。「フェスに出たいなら、フェスで鳴る曲を作ろう」。そうして生まれたのが「ムーンライズカーニバル」だった。何万人もの人が一つになれる、盛り上がることを前提にした曲。これはFUNKISTらしい、と確信できる楽曲だった。
その頃、長崎では毎年夏に稲佐山で「スカイジャンボリー」というロックフェスが開催されていた。クロマニヨンズ、BEAT CRUSADERS、10-FEETといった錚々たる顔ぶれが並ぶ中で、このフェスは当時としては珍しく、地元のラジオ局FM長崎が主導し、ブッキングもプロデューサーの有森勝郎氏が大きな役割を担っていた。そんな有森氏が、長崎に足繁く通うFUNKISTの噂を聞き、ある日、ギターのヨシロウと染谷の二人編成によるアコースティックライブを観に来る、という話が入ってきた。バンド編成ですらない日に、なぜ、という戸惑いの中でライブを終えると、寡黙で少し怖そうな風貌の有森氏が近づいてきて、短くこう言った。「夏に、山で会おうな」。
それでも、自分たちが呼ばれるとは思えなかった。あまりにも場違いなラインナップだったからだ。ところがその夏、FUNKISTに正式なオファーが届く。キャリア初の大型野外フェス出演だった。「ムーンライズカーニバル」を稲佐山で鳴らす、その夢に向かって動き出した矢先、メンバーのフルート奏者、春日井陽子が病に倒れ、当日は6人でステージに立つことになる。
状況はさらに厳しかった。その年、毎年出演してきた人気バンドがスケジュールの都合で出演できず、その代わりに無名のFUNKISTが出ることに対し、SNSでは強烈なバッシングが起きた。「FUNKISTの時間は休憩」「トイレと昼飯はこのバンドの時に」。そんな言葉が目に入る中で、染谷は不安を抑えきれず、有森氏に尋ねた。「本当に、俺たちでよかったんですか」。
有森氏は静かに答えた。「お前らの音楽な、平和とか歌ってるけど、人の日常にちゃんと寄り添うんだ。俺の嫁も子どもも、毎日聴いてる。俺が好きなんだ。それだけじゃ、ダメか」。その一言で、染谷は腹を決めた。有森が好きだと言ったバンドとして、ステージに立とう、と。
当日、稲佐山のスタンド前エリアは空っぽだった。観客のほとんどは芝生で座り、食事をしている。FUNKISTはその光景を真正面から受け止め、1曲目に「BORDER」を演奏し始めた。その瞬間、空気が変わる。FM長崎がラジオでかけ続けていた曲のイントロに気づいた人たちが、「あの曲だ」と前に集まり始めたのだ。気づけば、会場中の観客が、FUNKISTの音楽で踊っていた。
2曲目は「ムーンライズカーニバル」。フェスで鳴らすために作った曲だった。染谷は思いを抑えきれず、叫んだ。「俺ら、休憩時間じゃねえぞ」。歓声が上がり、稲佐山は一気に一体となった。FUNKISTにとって、それは、夢が現実になった瞬間だった。
翌年以降もスカイジャンボリーから声がかかり、3年連続で出演することになる。陽子が療養に入っていた翌年には、有森氏が「どんな形でもいいから、陽子を連れてきてやれ」と背中を押した。「あのステージで一万人がFUNKISTに夢中になってるのを見たら、病気なんか吹き飛ぶ」。その言葉通り、陽子は稲佐山で一年ぶりにステージに復帰し、そこから半年間、再びライブに立ったのち、他界した。有森氏もまた、同じ年に亡くなっている。
稲佐山は、FUNKISTにとって7人全員で立てた最初の野外フェスの場所でもあり、再出発の場所でもあった。そのステージを見ていた10-FEETがFUNKISTをツアーに誘い、京都大作戦など、次の道が開けていく。また、春日井陽子が旅立った翌年、彼女の誕生日にワンマンライブを行ったのが稲佐山のステージだった。すべての流れの起点に、稲佐山があった。
昨年、結成25周年を迎え、日比谷野外大音楽堂でのワンマンライブを成功させたFUNKISTは、次なる挑戦として、再び稲佐山を選んだ。2026年5月31日(日)、入場無料、キャパシティ1万人の野外ワンマンライブ。その決断は、無謀とも言えるほど大きな挑戦だが、同時に、長年支えてくれた長崎への恩返しでもある。
子どもからご年配の方まで、誰もが気軽に足を運び、音楽を通して同じ時間と空間を共有する。笑い合い、歌い、そして「平和」を感じられる一日をつくりたい。20年にわたって長崎に通う中で、おじいちゃんやおばあちゃんから託されてきた大切な想いを、今度は自分たちが子どもたちへ手渡す番だと、FUNKISTは考えている。
数えきれない記憶と感情が重なるこの稲佐山で、再びステージに立つこと。入場無料のワンマンライブとして、その場に集まったすべての人と「V-ROAD」を歌うこと。それが、今のFUNKISTが描く夢であり、新たな冒険の始まりなのだ。
インタビュー:川口和正、構成:杉山敦(TUK TUK CAFE)
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